『Maria Rita』プロフィール

マリア・ヒタはブラジル音楽の象徴とも言うべき父、世界的に有名な作曲家セザー・カマルゴー・マリアノと幼い頃死別した母、ブラジルの国民的大歌手エリス・ヘジーナの娘として生まれた。幼い頃より、周囲は母親のように歌手になるべきだと強く勧めたが、彼女にとってそれは大きな精神的負担であり、また、母親の身代わり歌手となることは、彼女自身納得が行かなかった。そして彼女は米国に留学しニューヨーク市立大学にてラテンアメリカ学とコミュニケーション学を専攻,ジャーナリストを目指し雑誌社に就職した。しかし、彼女は内心, 常に「歌いたい」との要望があり、就職後、「自分は歌わないと気が狂ってしまう」と言う強い思いに促され、ついに歌手になることを決心、父の力や母の影響力に頼ることなく、全て自力で2001年24歳でプロ・デビューを果たした。


マリア・ヒタがデビューするとその歌唱力はたちまち大反響を呼び起こし、2003年9月のCD「マリア・ヒタ」リリース前に、APCA2002年ベスト・ニュー・アーテイスト賞を受賞すると言う異例な出来事にブラジル中が歓喜した。彼女の歌唱力は天性のもので、歌の勉強も全て独学で自分の直観と心のままにすると言う彼女独自のものである。それは、やはり、独学で偉大なピアニスト、作曲家、アレンジャーとなった父の姿から受けた音楽家としての影響によるものである。


彼女の2003年9月発売の初CD「マリア・ヒタ」は全世界で売り上げ百万枚を突破した。また同名のDVDも同時に発売され、150,000枚を売り上げ、CD と DVDは全世界30ヶ国で発売された。新人にしては異例のブラジルでトリプル・プラチナ CD、ダイヤモンド DVD、また ポルトガルでもプラチナCD販売を達成し、18ヶ月で160のコンサートを開催し大好評を博した。


マリア・ヒタの実績と実力は瞬く間に認められ、2004年ラテン・グラミー新人最優秀賞を受賞、ベスト・ブラジリアン・ポピュラー・ミュージック(MPB)賞とポルトガル語ベスト・ソング賞を「ア・フィエスタ」から受賞、アワード・ファイズ・ア・デイフィレンサ賞をウ・グロボ新聞社から受賞、またマルチショー・アワード及びチム・アワードにてそれぞれ新人賞とパブリック・チョイス賞のトロフーを獲得した。初CDの中から、「ア・フィエスタ」、「カラ・ヴァレンチ」、「エンコントロス・イ・デスペジダス」そして「メニニイニャ・ド・ポルタオン」はテレビドラマ「セニョーラ・ド・デイスチノ」の中で流され、「エンコントロス・イ・デスぺジダス」はその主題歌となった。


2005年9月マリア・ヒタの新CD「セグンド」がリリースされ、その中の「カミニョ・ダスアグアス」のシングルCDがオンラインでプレ・セールされるとサイトに注文が殺到し、オンライン・サイトが混乱を起すと言うブラジルのレコード市場の大異変を起こした。その新CDによって彼女は長期に亘るブラジル国内ツアーを開催し、数々のブラジルのCD、「フオホ・プラス・クリアンサス」と「100 アニョス・ジ・フレボ」や、ブラジルのショー、「アーリンド・クルス」、「ウ・ハッパ」、「ウス・パララマス・ド・スセッソ」、「ジルベルト・ジル」、「マルトナリヤ」に出演し、またインターナショナル・ショー、「ジェイミエ・クルム」、「メルセデス・ソサ」、「ホルへ・ドレクスラー」に出演した。


そしてワールド・ヒットしたCD、「セグンド」は、2006年ラテン・グラミー賞に於いてベストMBPアルバム賞、ロドリゴ・マラニャンの書いた「カミニョ・ダス・アグアス」でベスト・ブラジリアン・ソング賞を受賞し、「モントル・ジャズ・フェステイバル」、「ノースシー・ジャズ・フェステイバル」、「NYアービング・プラッザ」、「サンフランシコ・ジャズ・ フェステイバル」など、海外50公演を開催し、大好評を博した。


2007年9月14日、マリア・ヒタのサードCD、レアンドロ・サプカイーとマリア・ヒタのラテンアメリカ諸国、メキシコ、ポルトガル、イスラエルで発売、10月には英国でも発売され「久しぶりの正統派サンバ」として高く評価され、マリア・ヒタはブラジル国内のあらゆる音楽祭にゲスト出演を依頼され、現在多忙を極めている。


- マリア・ヒタ公式ウェブサイト(http://www.maria-rita.com)より